私が映画を原作と比較したい理由
小説や漫画などの実写化映画について、私は「原作と映画はまったく別の作品として楽しむ」派です。
よく実写化映画(特に漫画)について「原作を改変しすぎ!」とか、「〇〇役の俳優が〇〇なんてイメージ違う!」なんて批判を目にしますが、原作は原作、映画は映画。
と思っているのです。
それに関連してですが、私は原作を読まずに映画を先に観た場合、そしてその映画をとても気に入った場合、なるべく原作の方も読むように心がけています。
というのは、たとえば「このシーン最高!」と思っても、この感動が100%「映画」からくるものなのか、それとも原作の功績もあるのかということを確かめたいからです。
この展開はアツイな……と思っても、それが原作をただ忠実に再現した結果なのかもしれないし、映画オリジナルのシナリオという可能性もある。
この台詞にグッときた!というときも、それが原作にもあった台詞かもしれないし、映画の脚本家が考えた台詞の可能性もある。
原作と映画ではテーマの核となる部分や構成がまったく違う、なんてことも全然ありますからね。
原作も読まないと、本当の意味での「この映画の好きなところ」が見えてこないと思うんです。
『来る』の原作小説『ぼぎわんが、来る』を読みました
前置きが長くなりましたが、2018年の新作ベストにも入れて2回観に行った、中島哲也監督の『来る』の原作小説である澤村伊智さんの『ぼぎわんが、来る』を購入して読みました!
私は読書は好きなんですが、本はそんなにたくさん読むタイプではないので、小説の感想を書くのは苦手です(笑)
なので今回は、映画『来る』と原作小説『ぼぎわんが、来る』を比較して、この映画の魅力について再確認していきたいと思います!
小説『ぼぎわんが、来る』と映画『来る』
あらすじは小説・映画ともにだいたい同じ。
ただ映画の方は、小説の大筋はちゃんと追っていながらも、全体的にかなり手を加えてる印象でしたね。
登場人物のキャラクターや関係性がちょっと変わっていたり、ストーリーも細かいところはところどころ違ってました。
中でも、小説と映画で印象がグッと変わっていると思ったポイントをまとめてみます。
「三部構成」のあり方
この原作小説は、秀樹・香奈・野崎とそれぞれ違った語り手を持つ三部構成になっているのが特徴。
映画も同じように三部構成になってはいるのですが、かなり印象が違って見えました。
原作『ぼぎわんが、来る』の場合は、三部とも完全な一人称視点。
で、基本的には時間の流れに沿って進んでいくんだけど、第二部・第三部ではそれぞれ異なった語り手が、既に描かれた内容を違う視点から明らかにしていくという「実はあのとき……」的叙述が結構出てきます。
それに比べて映画の方では、(第二部の香奈のパートは若干主観が入ってたけど)基本的には3人それぞれを客観的に俯瞰して見てます。
だから「あのシーンの別視点」みたいな演出はほぼなかったですね。
客観的に描いてることで、「語り手が死亡→次の語り手にバトンタッチ方式」というのがかなり際立ってて、そこがこの映画を観たときに衝撃的だったポイントでもありました。(原作では香奈は死なないというのもありますが)
あとは、原作だと一人称視点なので、第一部では秀樹がクズ男だってことがまったくわからないんですよ。それが二部の香奈の語りで明らかになっていくという。
でも映画は一貫して客観的視点で人物を見ていたので、もう最初から秀樹の「外面はいいけど中身はクズ」感が漂ってて、その厭な感じも中島哲也っぽくていいなと思います。
妖怪「ぼぎわん」について
小説は『ぼぎわんが、来る』なのに、なぜ映画のタイトルは『来る』なのか。
もちろんインパクトや覚えやすさなどもあると思いますが。
ここが原作と映画の一番決定的な違いだと思うんですが、原作では妖怪「ぼぎわん」の存在にかなりフォーカスしてるのに対して、映画ではあまりそこに突っ込んでないんですよね。
原作では、「ぼぎわん」についての情報は結構豊富で、その正体について諸説出てきました。
西洋人が日本に持ち込んだ「ブギーマン」がなまったものだとか。
西洋の有名な「ブギーマン」の言い伝えが形を変えて伝わった=海を渡って日本に来たブギーマンが「ぼぎわん」に姿を変えて日本に棲みついた的な話はすごく好みでした。
実際にはぼぎわんは架空の妖怪らしいですが、何か説得力あってドキドキしましたね。
映画だと、民俗学者の津田に秀樹がぼぎわんについて尋ねるシーンがありますが、「ぼぎわんっちゅうのは聞いたことないなあ」のひとことで終わり、その後は「ぼぎわん」という名前すら出てこなくなりますからね。
その後は徹底して、「襲ってくる"何か"と戦う話」にシフトしていて、原作にあったサスペンス的な要素はそっちのけ。
原作では、ぼぎわんの正体や秀樹たちが襲われた理由まで、謎解きのように明らかにされてました。
ここが原作と映画のテイストを分けたポイントなんじゃないかなと思いました。
あの除霊シーンは映画オリジナルだった!
映画『来る』の一番大好きなところと言えば、クライマックスの壮大な除霊シーン。
原作ではどんな感じだったんだろう……と思ったら、全然違ったのです。
「アレ」を招き入れて倒す、という結末は同じだったものの、原作では琴子と野崎が2人きりで、ボロボロになりながら必死に戦って倒してました。
琴子が警察と繋がってるという描写はあったものの、映画のように警察を全面的に動かして大掛かりな準備をしたり、全国からコネで集めた最強霊能者が集結したり……というのは映画の完全オリジナルでした。かなりビックリ!
ネットカフェで衣装に着替えるおじ様たちや、一見キャピキャピした女子高生霊能者たち、霊力を感知するコンピュータなどなどのセンスあふれる設定は中島哲也によるものだったんですね。最高です。
ちょっとした好きだったところ
あとちょっとイイなと思ったのが、『ぼぎわんが、来る』で登場したちょっとしたフレーズを、『来る』にさりげなく織り交ぜてるところ。
具体的には、まず真琴が使ってた「モヤる」って言葉。
『来る』では、最初に秀樹が真琴のもとを訪れて霊視?のようなものをしてもらってるとき、
「ちょっと2人きりにしてくれない?大勢いると……なんかモヤる」
という感じの台詞で使われてましたね。
原作ではこの台詞なかったです。2人きりにするシーンすらない。
そこではなく、
「まあ、何にも分かんないままじゃ誰でもモヤるから、私の分かる範囲で言いますけど……」
という台詞で使われてたんです。全然違うところ。
とにんまりしてしまいました。
あと、『来る』のクライマックスの除霊シーンで出てくる「除菌スプレーが霊に対して効果的」という奇妙な設定。
これも原作で出てきたんですが、除霊シーンではなく、「病院で眠っている真琴を琴子がタバコの煙で目覚めさせるシーン」。
そのとき琴子が「その辺のモノにはこれが一番効くんですよ。最近はファブリーズもいいらしいですが」と言ってました。
このシーン自体は映画にもあったんですが、そこではなくクライマックスのでこの設定をこっそり入れてきたあたり、きっと原作を読んでこの設定が気に入って使いたかったんだろうなと思いました(笑)
あえてクライマックスの方に入れることによって、「神も仏も警察もコンピュータも、利用できるものはすべて総動員!」感が増してよかったですね。
あとは、映画では超絶カッコイイ隻腕のベテラン霊能師としてキャラが立ってた逢坂セツ子さんですが、原作では腕をもがれたあとすぐに死んで特に目立った活躍もないキャラクターでした。
あのイケてるすぎる柴田理恵さんは、完全に映画が生み出したキャラクターだったみたいです。感謝。
中島哲也監督が、原作をかなりアレンジして映画化する人だとは何となくわかっていたけど、今回も原作の大まかな部分はしっかりと再現しつつ、中島節を随所に入れ込んで完成させた映画なんだなと分かりました。
私が『来る』を観て「この映画最高!」と思った部分は、だいたい中島監督によって生み出されたものだったみたいです。最高の実写化映画だと思う!