あらすじ・キャスト・スタッフ
『霊的ボリシェヴィキ』
2017年/日本/72分
監督:高橋洋
脚本」高橋洋
撮影:山田達也
照明:玉川直人
録音:臼井勝
音楽:長蔦寛幸
キャスト
韓英恵、巴山祐樹、長宗我部陽子、高木公佑、近藤笑菜、南谷朝子、伊藤洋三郎田、河野知美、本間菜穂
あらすじ
集音マイクがそこかしこに仕掛けられた奇妙な施設に、かつて「あの世」に触れたことのあるという、7人のゲストと呼ばれる男女が集められる。その中のひとり、由紀子は過去に神隠しにあった経験があった。その施設は霊気が強すぎるためデジタル機器が機能しないため、録画のためにアナログテープが回され、そこにゲストたちによる恐怖の心霊実験の模様が記録されていく。
感想
昨年の年間ベストにも入れた、『霊的ボリシェヴィキ』。
あの高橋洋が監督のホラー映画!というのと、あの不穏すぎる予告編、さらに不気味なポスタービジュアル、そしてよくわからないけど惹かれるタイトル……
すべてがツボで、わくわくしながら観に行きました。
尋常じゃなく怖い。
個人的に『女優霊』『降霊』と並ぶ、Jホラーベストに入る最高傑作でした。
映画における「語り」の恐怖
この映画は、「語り」から始まります。
廃墟に集まった7人の男女は、みんながそれぞれに「あの世に触れた」経験を持つ。
その体験を一人ずつ話していくというもの。
その後も全体的にこの「語り」が中心になって物語が展開していきます。
その「語り」の最中はカメラは基本定点で、カットもあまり割らない。
視覚的にもさまざまなギミックが可能な「映画」において、あえてそうしたものを排除して「語り」だけで構成される冒頭。
あまり映画っぽくないな、とういうのが最初の印象でした。
ただね、この「語り」の内容がまずめちゃくちゃ怖い。
どうしようもない怖さ
私の思うオカルトにおける最上級の怖さって、「どうしようもない怖さ」だと思うんですよ。
これは黒沢清から学んだ価値観なんですけど、黒沢清の言葉を借りれば、「克服不可能な恐怖」です。
たとえば、殺人鬼が襲ってきたとします。これは「恐怖」。
でもその恐怖心に対して、それを克服するための手段は存在する。「逃げる」とか「武器を持って立ち向かう」とか。
たとえ相手がめっちゃ強くて倒すことが不可能だとしても、結果がどうであれ、「死ぬことを回避するための努力」はできるわけです。
幽霊だって同じで、幽霊が追いかけてきたら逃げるし、自分を呪い殺そうとしているのならそれを回避する解決策がないか考える。
でも、幽霊がただそこに立っているだけだとしたら?
幽霊が目の前にいる。それは「恐怖」です。
だけどその幽霊は追いかけてこない、何もしてこない。
私たちはこの「恐怖心」に立ち向かう方法が何もないわけです。
もしそのあと幽霊がすーっと消えて見えなくなったとしても、それは恐怖心に対する解決にはならない。「見てしまったこと」は変えられないから。
黒沢清はこれを「人生にかかわる恐怖」と言ったりしています。
こういう「不可解なものを目の前にしてもどうすることもできない怖さ」っていうのが、私は何より怖いなと思うのです。
話がそれましたが、『霊的ボリシェヴィキ』の語りにおいて描かれる恐怖って、このパターンが多かったんです。
- 長尾が見た怖い夢。いくら目をこらしても顔が見えない女の人。
- 宮路が幼いとき山で見た、この世のものではない何か。すごく恐ろしいものだけど、「それ」について人間の言葉で説明することができない。
- 由紀子が幼いとき見た、ベランダに立つ静止した状態の母親。
- 由紀子が見た夢。怖くて目を閉じようとするけどどうしても目を閉じられない。
この種類の恐怖って、映像で見せてしまうよりも、完全に観客の想像にゆだねた方が圧倒的に怖いんです。
そういう意味で、「語り」だけで表現したことは非常に効果的だと思いました。
宮路が見た「見てはいけないもの」
一番怖かったのが、宮路の話。
子供のころに弟と一緒に遊びに行った山で、斜面を這っている「何か」を目撃。
それはこの世のものではなく、「見てはいけないもの」だということを直感的に察知したらしいけど、それが何なのかと尋ねても、「説明したくないし、できない。人間の言葉では説明できない」というところが恐ろしい。
この「視覚化できない、言語化できない」というのが、「見てはいけないもの」を見てしまったリアリティを生んでいてとても不気味でした。
で、作中では、宮路が「それ」に一番近いと思っているのが「コティングリーの妖精」の写真だと言っています。
めちゃくちゃ有名な偽心霊写真。私も小学生のときに本で見て衝撃だった記憶がありますが。
ただ、これに近いってどういうことなんだろう?と特に気に留めてなかったんですが、この描写についてパンフに補足が載ってました。
この「妖精写真」は、少女が妖精のイラストを切り取って風景に配置し、それを写真に撮ったもの。
この写真が今なお注目され続けているのは、「妖精の姿がまるで平面のように見え、三次元とは異なるものが介入している感覚を呼び起こすから」と書かれていました。
そして、
宮路が山で見た"何か"も、それが平面であったかどうかはともかく、現実の風景の中に表象不能のものが介在している感覚において近かったのだろう。
この1文で心底ゾッとしてしまいました。
たしかに、コティングリーの妖精写真の不気味さって「実際に肉眼で見えるものとしては不自然な違和感」なんだと思います。
宮路の見た「見てはいけないもの」は具体的に言語化されてないし、イメージとして思い浮かべることは不可能なのに、なんだかその感覚が分かってしまう。
となんだか納得してしまうと同時に、すごく不気味でゾワゾワしました。
このパンフレットが本っ当に面白くて、ここ数年で買った映画パンフの中でナンバーワンでしたよ……。
「霊的なもの」との向き合い方
あと好きなシーンが、冒頭、1人目の三田の話が終わったあと。
安藤が「結局一番怖いのは人間ってことでしょ」と吐き捨てるように言ったとき、宮路がおもむろに立ち上がって安藤の前まで歩いていき、杖でぶん殴る!笑
相手にしているのはあくまで「霊的なもの」。
「この世で一番怖いのは人間」っていうのはよくある主張ですが、それを冒頭から封じられることでグッと身が引き締まりましたよ。
で、そのあと宮路が「こういうときは歌いましょう」とかいきなり言い出して何かと思えば、全員でボリシェヴィキ党歌を斉唱し出すから動揺しましたよね。
シュールすぎて思わず笑いそうになったんですけど、あのタイトルインは超絶カッコよくて忘れられないです。
あと好みだったのが、霊の存在によって、現実世界に不自然な異変が生じるというところ。
霊気が強い場所だと確率異常が起こって何度トランプを引いても同じ数字が出るとか、突然外が暗くなって「もうこんなに時間が経ってたんだ」とか。
安藤の話の最中にいつのまにかポケットに入っていた数珠だったり、最後にどこからともなくボトッと落ちてくるアレとかもそうなんですが、霊的な存在が「私たちの世界の科学や物理に干渉する」っていうのがどうしても大好きなのです。
幽霊ってそもそも超自然的なものではあるけれど、ホラー映画においては「この世界の物理的法則に介入した描き方」って、たぶん敬遠されがちなんじゃないかなと思うんですよ。
ぼやっとした影だとか、半透明だとか足がないだとか、そういう「抽象的で非科学的な」存在として描かれる方が理にかなってるというか。
でも私は、あえてこの世界の物理や化学にのっとって、人間の知覚にガンガン入り込んでくるような幽霊の描き方が好きです!
だって幽霊って、それこそ平面なのかもしれないし、由紀子の母親がまさにそうでしたが、生身の人間のように質量を持った存在かもしれないし、分からないんだから。
観終わったあと、ふらつく足どりでパンフレットを買ったはいいのですが、怖さの余韻のせいで家で一人で読むことができず、次の日職場に持って行って昼休みに読みました。笑
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